バーバリーとライセンス契約を結んだ三陽商会について
設立当初の三陽商会は、電気関係の工業用品や繊維製品の製造販売、工作機械工具の修理加工販売を取り扱っていました。1942年、吉原信之氏によって個人経営で開かれた三陽商会は、1943年には株式会社となります。1945年には三陽商会の基礎であるレインコートの製造販売を主要な業務として取り扱うようになりました。
三陽商会の創設とは
設立当初の三陽商会は、電気関係の工業用品や繊維製品の製造販売、工作機械工具の修理加工販売を取り扱っていました。1942年、吉原信之氏によって個人経営で開かれた三陽商会は、1943年には株式会社となります。1945年には三陽商会の基礎であるレインコートの製造販売を主要な業務として取り扱うようになりました。
1949年には現在の三井物産である第一通商より「エキスポートバザー」のためのレインコートの縫製を大量に受注、さらにゴム工業会社を通じて、レインコートの大手として急速に業界で発展していきました。またその頃には、レインコートに初めてデザイナーを起用し、レインコートを衣装の一部とした意識は、業界の中で他社に差をつけました。
エキスポートバザー
1949年の「エキスポートバザー」とは、外国人向けとして日本各地の老舗の百貨店で行われた特別催事です。この時、全国の有名百貨店との窓口を持ったことが、後に功を奏します。また、吉原氏がこのエキスポートバザーをきっかけにレインコートの歴史について調べたところ、レインコートはファッションをリードする高級品として売り出すべきものという結論に行き着きます。
コートと三陽商会、「サンヨー」ブランドの確立
吉原氏は1950年にメーカーのマークを自社製品に付けて売り出すことにし、「サンヨーレインコート」のブランド名を作りました。ブランド名が付いた商品を、百貨店や専門店に直接売り込み、百貨店での小売業によって消費者へ自社製品を浸透させることに成功します。また、1951年には「サンヨーレインコート」の商標登録を行いました。
三陽商会はレインコートだけでなく、秋冬物のコートの分野にも進出します。商品開発は通年を通したものとなり、流行や時流に合わせたコートの開発に力を注ぎました。1950年から1960年代前半からはコートのみという狭い分野に、デザイナーを活用して流行を生み出すような商品の企画を行い、単一品種で大量の素材を調達、大量生産のうえに集中販売を行うコートへの集中的な事業形態が出来上がります。
三陽商会は百貨店でのファッションショーや、キャッチコピーを利用したラジオCMの活用、流行映画に登場するコートのデザインを取り入れ販売するなど、消費者にサンヨーブランドを印象づけていく戦略を積極的に打ち出していきます。
総合アパレルメーカーとしての三陽商会
1958年にはデザイナーを海外に派遣してコートの研究をさせ、1963年から1966年までの間はパリにアトリエを開設し、本場のデザインを取り入れることに力を注ぎます。また、1960年代には海外メーカーとの技術提携をはじめ、商品開発や技術を強化させていきます。そして、1967年からは各種レディスカジュアルウェアの取り扱いも行うようになり、多様なブランドを持つ企業になっていきます。
海外メーカーとの連携の中で広がるミッシーカジュアル
製品の多様化に伴い、顧客の対象もメンズ、レディース、キッズと広がり、その中で対象年齢も細分化されていきます。特に当時、結婚によってヤングからミセスへと変わった20代女性を、ミッシーと呼ぶ流行が伊勢丹を通じて発信されましたが、ミッシーカジュアルは、1971年頃にアパレルメーカーのみならず、百貨店や原糸メーカー、海外メーカーとの連携の中で広がりを見せていきます。ミッシーカジュアルについては海外ブランドとの技術提携が無くてはならないものでした。
三陽商会は、1969年頃には既に世界各国の有名なコートメーカーと提携し、技術交流や輸入ブランドの販売を行っていました。バーバリー社コートの独占販売は、1964年から行っていましたが、本格的な提携を始めたのは1969年のことです。